中学生のころ、町に映画を観に行くと、よくメリーさんを見かけた。全身白塗りの老女で、とても近づける雰囲気ではなかったし、強烈な畏怖を感じた記憶だけが今もなお残っている。その後、いつの間にかメリーさんは町から居なくなっていた。
「なぜ、メリーさんを題材にしたのですか?」と多くの人に聞かれる。いちばんの理由は、私がメリーさんと関わりを持った人達と出会ったこと、そして彼らに強く惹かれたことだろう。
畏怖すら感じるメリーさんと、ただ会って話すだけでも凄いのに、友達だった人すらいる。彼らが語る「メリーさん」」との記憶や話、真偽すら定かではない伝説などが面白くて堪らなかった。 「語ること、語り継ぐことに意味がある。語り継いでいくことによって、余計なものが削ぎ落とされ、本物だけが残る。メリーさんの伝説と同じかもしれない」。ある人が言った、このフレーズが忘れられない。そしてメリーさんの本物の部分、核心を追っていけば、私が育った横浜という町のメンタリティを描くことができるのではないか、作品になるのではないかと思い、 勢いだけで作り始めた。
私自身は、メリーさんの映画を撮った感覚はあまりない。 「メリーさん」を通した「ヨコハマ」の一時代と、そこに生きた人たちを、ただ一つの現象として撮っただけだと思っている。しかしその現象のなかにこそ、誰もがもつ、普遍的な人の営み、感情、人生が如実にあらわれるのではないだろうか。それはどんな社会的なメッセージよりも私が描きたかったことである。 最後に、この作品を作るキッカケとなり、常に支えてくれた森日出夫さん、病と戦いながら出演してくれた元次郎さん。そして(作品に協力してくれた)愛すべき横浜の人達に心から感謝の言葉を言いたい。ありがとう。いや、ありがとうございました。

中村 高寛

1975年生まれ。横浜出身。97年より演出助手として、松竹大船撮影所よりキャリアをスタート。前田陽一監督の現場をはじめ、オリジナルビデオなどのドラマ作品に携わる。99年から01年まで北京電影学院に在学し、映画演出、ドキュメンタリー理論を学ぶ。帰国後、日本在住の中国人映画監督である李纓に師事し、氏のドキュメンタリー映画「味」に助監督として参加。本作が監督デビューとなる。









メリーさんを最初に撮ったのは25年位前である。真白い顔に深紅のコートを見に纏っていた。街の喧噪の中、通り過ぎざまにシャッターを押す。 指先に震えを感じた。12年前(1993年)に韓国人の友人から連絡があり、“メリーさんが自分が働いている店の、ある場所にいつも居る”というのだ。半信半疑で福富町(横浜)にあるBARが20軒位入っているGMビルに行くと、 螺旋階段の前に白いドレスを着たメリーがポツンと立っていた。まるで舞台女優のようだった。
それから一年間、僕はメリーさんを撮り続けた。メリーさんの存在は僕の生活の一部となった。 1995年、写真集「YOKOHAMA PASS」ができ上がった。 ……そしてメリーさんが忽然と街から消えた。
横浜の風景が変わって見えた。何か違和感があった。メリーさんと横浜の街が一体となっていたのだ。2006年、横浜で「ヨコハマメリー」が上映される。それもメリーさんが毎日歩いていた伊勢佐木町の映画館で……。 青江三奈の伊勢佐木町ブルースが聞こえる。

森 日出夫

1947年横浜生まれ。JPS(日本写真家協会)所属。横浜の港?町?人を撮り続け、<森の観測>と名付けて、数多くの写真集や個展で発表する。 95年には、ハマのメリーさんを取り上げた「PASS ハマのメリーさん」を発表。96年、ニューヨークADC賞、01年横浜文化賞奨励賞を受賞。変貌する風景を写真にとどめ、人々の街への意識を高めることをライフワークとしている。








当初は「LIFE 白い娼婦メリーさん」として始まった作品。一度完成した作品を解体し、タイトルも替え、「ヨコハマメリー」としてスタートした。監督がリサーチをおこない、その情報を元に、私と2人で考えていくというスタイル。最初の撮影から7年、私が参加してから3年。数百時間の膨大な素材があった。必然的に、編集室は監督とのディスカッションルームと なった。壁一面に貼られた付箋を剥がしては貼り、剥がし続けているうちに、足りない画があることに気付き、新たな素材を撮影ーまた編集室ーの繰り返しだった。 メリーさんを語ることは、かつての横浜、元次郎さん、根岸家や混血児、シルクセンターに脱線していくことに他ならなかった。取捨選択よりも情報量を重んじた。だが混沌からナラティヴが立ち上がっていくような構成は、地味かもしれないが、決してオーソドックスな着地点ではないと自負している。製作にあたっては多数の方々から有形無形の協力を得た。その中でもとりわけ感謝したいのは、森日出夫氏の多数のスチール写真と中澤キャメラマン撮影のラストシーン。この二つが核となって、作品の強度を高めているのだと思う。

白尾 一博

1994年、実験映画「産業とダッチワイフ」を制作。IFF94で大賞を受賞した他、バンクーバー国際映画祭など20数カ国で上映される。その後、あがた森魚監督の「港のロキシー」を撮影したことがきっかけで、撮影監督としてのキャリアをスタート。「多摩川少女戦争」(及川中監督)、「ボディドロップアスファルト」(和田淳子監督)、「パルコフィクション」(矢口史靖?鈴木卓爾監督)、「蒸発旅日記」(山田勇男監督)、「夢幻彷徨」(木村威夫監督)、「ブラックキス」(手塚眞監督)など。撮影監督としての最新作は木村威夫監督「馬頭琴幻想」。また、音楽PVの演出?撮影も多数手掛けている。「ヨコハマメリー」は初めてのプロデュース作品。







元次郎さんとのやりとりは、不思議とすべて覚えている。しゃべり方も、くるくる変わる顔の表情も、手を握ったときの体温も、言葉の一字一句まで。それだけ元次郎さんという人は、私(たち)に強烈な印象を与えて、あっという間に逝ってしまった。それは、私たちに何かを伝えるために現れた化身ではないかと錯覚するほどだった。
私たちは確かに、「ヨコハマメリー」を完成させた。その一歩を踏み出したのは、7年前になるだろうか。気づけば5年という歳月を費やしていた。スタッフの中にも色々なことがあった。だからこれは、我々スタッフの、生々しい記録でもある。でもやはり、完成フィルムを見ていると、元次郎さんのことを思い出す。メリーさんが手繰りよせた人々。その人々が、元次郎さんの棺の傍らでじっと固まっているあの光景は、今も頭に焼き付いて離れない。固まっている私たちの前で、棺はするすると暗闇に吸い込まれて、元次郎さんは骨になって出てきた。みんなで黙って、骨を納めた。生き抜くことを見せつけられた。
我々が切り取ったのは人々の人生の極一部だが、この作品に関わった人々は、これからもずっと生きていく。ドキュメンタリーが切り取るのは、そんな人生の一部分に過ぎない。しかしその一部分が、人の人生をみせていく。

片岡 希

1977年岡山県生まれ。日本の大学で中国文化を学んだ後、99年から01年まで北京電影学院導演系(監督科)に在籍、司徒兆敦に師事し映画?ドキュメンタリー演出を学ぶ。その後、「故郷の香り」(フォ?ジェンチイ監督)など中国映画本編の制作に携わる。現在は横浜にて中華学校の子どもたちを追ったドキュメンタリーを制作中。








撮影を始めたのは7年前。写真家の森日出夫さんのインタビューからでした。その頃のスタッフ体制は監督と私。年月が経つうちに増えていく資料と撮済(テープ)。参加スタッフも少しづつ増えていきました。皆さんなくして、完成はなかったでしょう。
劇映画育ちの私は撮り始めた当時、劇とドキュメンタリーの違いを考えるよりも、日常を追っていく映像を、いかに劇映画のように撮っていくかを考えていました。何百回と歩き回り、見つけた映画的フレーム。この中へ日常を招き入れたい。日常を映画に。
病が発覚してからの元次郎さんの撮影は、ドキュメンタリーの重み、そして撮る者、撮られる者の関係性を問われました。余計な小細工など入る隙間のない現実。元次郎さん自宅玄関横のコンクリートの隙間、寄り添う様に黄色く笑うタンポポ。私のキャメラは、このタンポポにはなれないものか。元次郎さんの思い、この作品に関わった方々の思いが少しでも映像で伝われば幸いです。命が尽きても、決して終わる事のないそれぞれのドキュメント。日常を映画に、ではなく、人それぞれの今そこにある日常こそが壮大な映画であると感じます。

中澤健介 
1976年茅ヶ崎生まれ。松竹大船撮影所で川又昂に撮影論を学ぶ。97年から撮影助手としてキャリアをスタート。後に、藤澤順一に師事し、「ターン」、「狗神」、「老親」、「白痴」、「はつ恋」、「カラフル」などに就く。その他、TVコマーシャル、音楽PVなどにも数多く参加してきた。 近年では「サントリー烏龍茶」、「伊右衛門」などの広告を手掛ける広告写真の上田義彦にも師事している。「ヨコハマメリー」で映画キャメラマンデビューを果たした。








「渚さんに歌を、そしてバックトラックを八重樫さんに…」。監督とプロデューサーは私に言った。そして、こうもつけ加えた。「予算はあまり無いんですが…」。そのヒトコトで私の頭の中で録音風景が見えてきた。 いつもの目黒の激安スタジオで、気の合った古い仲間とライブ演奏のように一発録音。ヘッドアレンジは今、私とユニットを組んでいる福原まり。渚ようこの歌のバックには、渋くて存在感のあるギター。ゲスト扱いでクレイジーケンバンドの小野瀬さん…これで決まり。 そして数週間後には、その通りにこの曲は録音された。オリジナルとは一味違った「伊勢佐木町ブルース」。映画と共に私の心に残る作品となりました。

コモエスタ八重樫

DJ/プロデューサー/ライター。1990年代初頭、現状の音楽に飽き足らずラテン音楽の復興を目指し、東京パノラママンボボーイズを結成、一時代昔のマンボのリズムで話題をまき、メジャーデビューを果たす。解散後もソフトロック指向のユニット5th GARDEN結成。古めかしいマンボサウンドを強烈なデジタルビートにのせたユニットCOMOESTAやJet Ropezを始動。00年にはピチカートファイブなどと共にヨーロッパ4カ国のDJツアーを成功させている。現在、東京のクラブシーンではラウンジ系DJ、または元祖和モノDJとしても活動。その間、リミックス作品やプロデュース作品、貴重な日本の古い音源の復刻CDも数多く手掛けている。SINCEでは新しいサンプリングミュージックを模索中。今までのダンスミュージックとは一味違った「憩」サウンドを追求、「BGM vol.1 for MODERNICA」と「REMIX vol.1 for MODERNICA」 で新曲を発表している。またライターとしても長年続いている「コレクター」のコラムを始め、インテリア愛好家として多数執筆。04年の『MOD EAST』(TOTO出版)は「エルデコ」「アクシス」から「リビングデザイン」と引き継いだコラムページの集大成。過去の日本モダン建築へのこだわりを見せている。
















© 人人FILMS all rights reserved.